【日記】戦後70年、日航機事故から30年、高校野球100年と節目の重なる2015年夏に思うこと


最後の被爆地・長崎に住む私にとって、今年は戦後70年という節目の年です。

たった70年前に、あれだけの悲劇が起こったのかと思うと、いまだに信じられないと言うのが正直な気持ちでもあります。

それほど、今の日本も長崎も平和であり、そんな環境の中で平和ボケしてしまっているのではないかと焦りを感じる今日この頃でもあります。

今年は被爆者の平均年齢が80歳を超えました。

長崎の各学校では、毎年「語りべ」と呼ばれる被爆者の方を学校にお招きし、当時の被爆の様子、ご自身の思いなどを生の声でうかがいます。

しかし、悲しいことに、夏にお話をうかがった語りべの方が、その年のうちに亡くなったり、翌年に亡くなられたりということも出てきました。

あんなにお元気そうに、気丈に、力強く話をされていたのに…と、残念な気持ちが込み上げるわけですが、被爆から70年が経ち、当時の記憶を語ることができる年齢を考えると、それも避けられないのが現実。

多くの被爆者の方は、みな病を抱えて、それでも「今、自分が語り継いでおかないと」という強い思いで、必死に語りべ活動を続けておられる方ばかりです。

戦争は、国と国との喧嘩です。

人と人とが意地の張り合いや、気持ちのすれ違いで喧嘩をしてしまうよう、国と国も喧嘩をし、それが戦争へと発展してしまうのです。

人同士の喧嘩がエスカレートして激情してしまうように、戦争がエスカレートして、原爆が落とされました。

でも、あの仲直りの日から70年経った今でも、世界には苦しんでおられる方がたくさんいらっしゃることを知ってほしいと思います。

1945年8月9日午前11時2分。長崎に原子爆弾が落とされました。

長崎市では8月9日は子供たちの登校日。今年は日曜と重なりましたが、もちろんこの日が登校日でした。

末の10歳の娘が言いました。

「なんで日曜に学校に行かんばとさ」

私は答えました。

8月9日は唯一無二の日。原爆の落とされたこの日にみんなであの日を思い出すことに意味がある。8日でも10日でもない9日にみんなで考えることに意味がある。これだけは絶対に変えられないのだと。

私も私の親も戦争を経験していない世代です。だからこそ、きちんと戦争の絶対悪、そして語りべの皆さんの思いを、子供たちに、未来に伝えていかないといけないと思っています。

そんな被爆地の思いを、この夏の甲子園で言葉にしてくれた高校生がいました。

選手宣誓をした京都府立鳥羽高校の梅谷成悟くんです。

彼は宣誓の結びに

「次の100年を担う者として、8月6日の意味を深く胸に刻み、甲子園で躍動することを誓います」

と力強く述べてくれました。

今年で100年となる高校野球。

開会式が行われたのは奇しくも広島に原爆が落とされた8月6日でした。

NHKで祈念式典を見、広島から平和の願いが発信された後の梅谷君のそれに応えるかのような宣誓に、とても感動しました。

彼のような若者が一人でも多く、未来に戦争の悲惨さを伝えて行ってほしいと願うばかりです。

 

 

そして、今日は日航機の墜落事故から30年の節目の日でもあります。

単独の飛行機が起こした事故では最も多い犠牲者を出したこの事故。520名の尊い命が一瞬のうちに奪われました。

当時、原因究明がなされ、結果として機器の整備を万全にしておけば防げた事故であることがわかり、亡くなった命のことを思うと無念でなりませんが、ニュースで、この便の機長を務めていた高濱雅己さんの娘さんが父親と同じ日本航空に勤務し、キャビン・アテンダントとしての任務に着いていることを知りました。

事故から間もない頃は、非難の目にさらされていたはずですが、その事故からわずか3年後にキャビン・アテンダントになられたと言います。

父親が果たせなかった空の安全を自分が継いで果たしていく。

そんな強い意思が感じられます。

現実から逃げず、二度とこの過ちを繰り返さないよう、自らが伝えていきたい。

甲子園で力強く宣誓をした梅谷くんにも、高濱機長の娘さんにも、同じ思いを感じました。

今日は御巣鷹での慰霊の様子が、テレビなどで多く見られるようです。子供たちにこのことを深く伝える日にしたいと思います。

 

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