鶴久政治がしくじり先生でチェッカーズ再結成を誓う!空気のような自分だからできること


1980年代、大人気を博したチェッカーズの鶴久政治さんがしくじり先生に登場しました。

懐かしいと思って振り返りながら見ていましたが、サイドボーカルの鶴久さんがそんなことを感じていたとは…。

今聞いても名曲揃いのチェッカーズ。

鶴久さんの願いがかなう日が本当にくるといいですね。

 

 

鶴久政治チェッカーズに加入するも空気!?

チェッカーズの前に組んでいたバンドでは、リードボーカルを務めていたという鶴久さん。

中3の時、たまたま行ったダンスパーティでフミヤさんと出会ったそうです。

その時、フミヤさんもバンドを組んでいて、それが「チェッカーズ」。

もちろんフミヤさんはその中心メンバーでした。

高校の1つ先輩だったフミヤさんに

「チェッカーズを一緒にやるけんついてきんしゃい」

と言われ、女子にモテモテだったフミヤさんを見てすぐに加入を決めたと言います。

加入した鶴久さんは、4人いるメインボーカルの1人というポジション。

音楽祭でグランプリを獲得し、1983年プロデビューが決まったものの、いざレコーディングに行ってみると、フミヤさんがメインボーカルというスタイルになっていました。

鶴久さんの知らないところで、スタッフが話し合ってフミヤさんをメインボーカルとすることを決めていたのです。

この時、鶴久さんの頭の中には「なぜ?」という思いはあったものの、業界の勝手がわからず、7人で助け合っていこうと思っていたこともあり、何も言わなかったのだとか。

おまけに「楽だし、まぁいっか!」と思っていたと言います。

ここから鶴久さんの空気のような存在の人生が始まってしまったのです。

 

鶴苦ロード

当時は見ていて気づきませんでしたが、鶴久さんなりにかなりひどい扱いを受けていたようです。

1つは、鶴久さんだけチェッカーズカットができなかったのに、誰も気にしなかったこと。

ちぢれっ毛で前髪が伸びない鶴久さんは、みんなのようにチェッカーズカットにすると、前髪がかまきりの卵のようだったんだとか。だから帽子をかぶっていたことも多かったそう。

また、鶴久さんだけが女装でジャケット写真撮ることもあったとか。当時はカルチャークラブがはやっていたこともあり、これについても何も反論しなかったそうです。

あと、驚いたのは、ファンから「白いの」と呼ばれていたということ。

みんなは「フミヤ」「ナオユキ」など下の名前で呼ばれていたのに、色白だから「白いの」と言われ、それでも楽だしまぁいっかと思っていたそうです。

何だか残酷ですね…。

 

初めて感じた危機感

デビューから3年で、ある事件が起きたそうです。

それはライブ中のこと。

フミヤさんのマイクの調子がおかしく音が出なくなってしまったんだとか。

それにいち早く気づいた鶴久さんは、自分とフミヤさんのマイクを素早く交換。

メインボーカルのフミヤさんは事なきをえたわけですが、鶴久さんの声は一切聞こえないまま。

なのに、何ら変わらず盛り上がっていたファンの人たち。

「俺ってチェッカーズにいてもいなくても一緒じゃん…」

と、この時初めて強い危機感を感じたと言います。

 

一念発起で作曲スタート

それから鶴久さんは、自分の存在感を示すべく、作曲にチャレンジすることに。

その頃メンバーがオリジナル曲を作り始めていた時期で、よし、自分も!と思ったそうですが、ここで初めて気づいた事実がありました。

それは、楽器ができないということ。

そこから必死にギターを練習して曲が作れるようになった鶴久さん。

結果的には、

「WANDERER」「Jim&Janeの伝説」「Cherie」「Friends and Dream」「夜明けのブレス」など数々の名曲を生み出すわけですが、当初は24時間体制でやってもなかなかスタッフの審査を通らなかったそうです。

しかし、その姿を担当ディレクターが見ていてくれ、当時大人気だったおにゃんこクラブ

のゆうゆのシングル曲「25セントの満月」に選んでくれたそう。

そして、そこから一生懸命に作曲に励むようになった鶴久さん。

それまで肩身がせまかった鶴久さんのファンも堂々としてくれるようになったのが、とてもうれしかったそうです。

 

予期せぬ解散

しかし、その日はやってきました。

1992年12月31日、紅白歌合戦をもって解散。

鶴久さん、この時28歳。

実は、結婚をし、お嫁さんのおなかの中には赤ちゃんがいました。

サイドボーカルだし仕事がないことを考えると、とにかく毎日が不安だったそう。

しかし頭のどこかで、どうせそのうち再結成するだろうとタカをくくっていた鶴久さんを打ちのめすことが次々と起こります。

それは、フミヤさんの華々しいソロでの活躍。

解散から10ケ月後、1993年10月に「TRUE LOVE」が200万枚越えの大ヒット。

そして1996年には、藤井フミヤ作詞・尚之作曲の「白い雲のように」がミリオンヒット。

それに比べ、自分のソロ曲は1万枚も売れない始末。

終いには、CDが売れなさ過ぎて、いよいよ契約終了となってしまったのです。

そしてとどめは、2003年、高杢禎彦さんの本「チェッカーズ」の発売。

この暴露本の発売で、マスコミがチェッカーズメンバーをフミヤ派、高杢派に分け、派閥を作り上げてしまいました。

ドラムのクロベエこと徳永さんが2004年に舌癌で亡くなった時も、結局6人のメンバーがそろうことはなかったそうです。

しかし、鶴久さんいわく、全く派閥などなかったのだと言います。

誤解が誤解を呼んで一人歩きしていたのだと。

 

いつか6人で再結成を

自分が知らないうちに解散が決まり、知らぬ間にありもしない派閥が作りあげられ、6人そろってクロベエにお別れも言えなかったことは、事なかれ主義の自分が招いたしくじりだと言う鶴久さん。

メンバーといた頃、1度も自分から誘えなかった自分に高杢さんだけが声をかけてくれていたと言います。

そして、今までは空気のような存在でよしとしていた自分だからこそ、今の状況でできることがあると考えるに至ったそうです。

それは、乱れてしまったグループの輪を修正すること。

再結成しようとは言えないけど、

「1回みんなで飲みましょう」

とは言えるんじゃないかと言います。

昔のようにみんなで直接話せば昔のように戻れるはず。「空気」が未来を変えていくんだと、鶴久さんは強く心に感じていらっしゃるようです。

鶴久さんが、「涙のリクエスト」の歌詞を変えて

「再結成リクエスト for you」

と歌われました。

youはファンを指し、今は亡きクロベエを指し、そして6人のメンバーそれぞれを指しているような気がします。

あの頃の7人がそろうことは叶いませんが、ぜひ一夜限りでも、再結成をして、ファンをそしてクロベエを安心させてくれたら、どれだけうれしいことでしょう。

まずは6人が酒を(鶴久さんはカルピスを)共に酌み交わせる日が来ることを祈っています。

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