力道山の息子が破産した理由 力道山の短い生涯は闘いの連続だった


爆報!THEフライデーで力道山の遺産問題が取り上げられます。

40億もの遺産はもう全然ないということですが、番組には息子さんの百田光雄さんが登場されるようです。

破産した理由とは何だったのでしょう。

 

 

プロレスラー・力道山の誕生まで

昭和38年12月15日に亡くなったプロレスラー・力道山。

オンタイムで彼のレスリング姿を見たことのない筆者でも、その偉大さはこれまでに何度となく耳にしたことがあります。

39歳という若さで亡くなった力道山のその短い一生は、波瀾万丈なものでした。

北朝鮮出身の力道山は、本名を金信洛(キムシルラク)と言います。スカウトを受け、昭和14年、日本にやってきました。

しかし、最初から力道山がプロレスラーだったわけではありません。

彼が飛び込んだのは日本の相撲界だったのです。

15歳で初土俵を踏んだ力道山は、関脇にまで昇進しますが、25歳の時に突然引退しています。

親方である二所ノ関親方に借金を申し出、それを断られると、自ら髷を切り落として引退ということにしてしまったとか。

これには、病気にかかってしまい、体力に不安を感じていたことや、自分の出自から思うように昇進がかなわなかったことも背景にあると言われています。

そして飛び込んだプロレス界。

日本中を熱狂させ、日本プロレスの父という異名までとるほどの大ヒーローに上りつめたのでした。

 

力道山の4人の妻と息子・娘たち

番組に登場する力道山の息子・百田光雄さん。

実は、百田さんの母は、力道山の2人目の妻と言われています。

39歳で亡くなるまで、4人の妻を持っていたという力道山。

最初は、北朝鮮にいる時にいた妻で、その妻との間には娘が1人いたそうです。

そして、百田義浩さん、光雄さん兄弟の母である京都の芸妓だった妻。

義浩さん、光雄さんには、千恵子さんという姉もいたとか。

3人目の妻は、小沢ふみ子という女性。

綾という日本橋の芸者だったふみ子さんは、義浩さん、光雄さん兄弟の育ての親でもありました。

そして半年の結婚期間しかなかった最後の妻・田中敬子さん。

力道山には生涯のうちに、5人の子供がいたわけです。

 

遺産の行方と破産の理由

力道山は、プロレスラーというだけでなく、いろいろなアイデアを出すのが得意な実業家でもあったようで、先見の明があり、エンターテイメントとしてのプロレスに時代の流れを取り入れるのがとてもうまい人でした。

しかし、その力道山が、ある日突然、一人の暴力団員によって命を絶たれました。

足を踏んだ、踏んでいないという、あまりにささいな原因から始まった言い争いは、ナイフの一刺しであっけない結末を迎えました。

これまで百戦錬磨だった力道山ですが、その事件から一週間後、腹膜炎をこじらせ亡くなりました。

この時、4人目の妻・敬子さんと結婚して半年だった力道山。敬子さんのお腹の中にはまだ父の顔も見たことのない長女がいました。

そして、この時、まだ敬子さんは22歳。JALのスチュワーデスをし、父親は神奈川県警の警視という厳格な家庭に育ったお嬢様が、突然、力道山の跡を継ぐことになったわけです。

事業については、右も左もわからない上、3人の連れ子とまだ幼いわが子をかかえ、周囲の人たちの言うようにするしかない状態だったと言います。

結局、敬子さんの手元に残ったのは、住んでいた自宅(リキ・アパート)だけでしたが、その相続税だけで1億円だったらしく、泣く泣く処分することになったそうです。

莫大な遺産はあっても、結局はプロレス界の渦の中ですべてをもぎとられ、力道山自らが一番愛していたであろう妻や子には、何も残らなかった。残ったのは借金だけ。

志半ばで旅立った力道山もさぞかし無念だったことでしょう。

 

闘いの一生

力道山のDNAはきちんと受け継がれ、次男である光雄さんの息子・百田力さんはリングネームを「力(ちから)」と決め、プロレスラーとして活躍しています。

また、最後の妻、田中敬子さんの娘の子供、つまり力道山の孫である田村圭さんは、慶應高校で活躍し、甲子園にも出場されたほどです。

もしまだ力道山さんが生きていたら、どれだけ喜ばれたでしょうね。

北朝鮮にいる頃、ソウルの相撲大会で二所の関部屋の後援会だった百田巳之助さんスカウトされ、以後、北朝鮮出身ということは隠し続けていた力道山。

しかし、部屋の力士仲間からは本名で「金!」と呼ばれていたということで、北朝鮮出身ということはバレバレだったと言います。

当時は、北朝鮮への差別が激しかった時代。その向かい風に立ち向かうには、力をつけ、勝負に勝つしかなかったのだと思います。

そして、人一倍練習し、努力を重ねた末の悲しい結末。

巷では、酒乱だった、喧嘩っ早かったというのが定番の批評ですが、実は酒はそんなに強くなかったそう。

また、貧しい環境で育った力道山は、当時、プロレスの入場を最低の300円から絶対に上げないよう指示し

「この300円は、絶対に上げるなよ。貧乏な人間が、いつでも来れるようにしておけ。プロレスは、金持ちも貧乏人も、みんないっしょに楽しんでもらうんだ」

言っていたと言います。

15歳で異国に渡り、人種の差別にも耐えながら、強い鎧を自ら身に着けることで、心も守ってきた力道山。

ご冥福をお祈りしたいと思います。

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